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「……ごめんなさい。次から気を付けます」

「別に……そんなに強く怒ってるワケじゃ」

「いやいや、寛木君の言う通りだから」

 

 俺は腰に手を当てると、チラリと時計を見た。七時半。店の営業時間は夜の十時まで延長した。あと少し。もう少し頑張らないと。俺は微かに肩にのしかかってくる疲労感に息を吐くと、最後にもう一度、店の中を見渡した。

 そこには、パソコンを開いて作業をする人。スマホを弄る人。ただぼんやりとする人。様々な働く大人達で溢れていた。

 

「大人の放課後かぁ」

 

 それは、うちの店のコンセプトとして寛木君が言った言葉だ。俺は、それをとても気に入っていた。俺では思いつかない言葉だ。

 仕事終わりから帰宅までの数時間。彼らにとってこの場所は安らげる空間でありたい。

 

「お客さんをもてなすのが俺の仕事なのに、お客さんのリップサービスに乗っかってちゃだめだね。さぁ、寛木君。追加の注文はなに?何番テーブルさん?」

「……俺」

「へ?」

 

 その瞬間、ボソリと呟かれた言葉に、俺は目を瞬かせた。

 

「だから、俺」

「えっと、それは……」

「だからっ!休憩中に飲むコーヒーを淹れろって事だよ!察し悪過ぎ!何年接客業やってきてんだよ!?」

 

 橘さんとの会話に割って入り、まるで客の注文を受けたかのような様子で言われたアレは、どうやら寛木君自身の注文だったらしい。

 

「っふふ。じゃあ、橘さんのと一緒にブレンドを淹れてあげるから。待ってて」

「……あの人のとは別のがいいんだけど」

 

 微かに頬を染めながらそんな事を言う彼の姿に、妙に腹の底がくすぐったくなる。

 可愛い、なんて言ったら寛木君はどう思うだろう。

 いや、言わない。もちろん、言わないさ。そもそも俺は寛木君の好みじゃないし。って、言うか俺がそんな事言ったらセクハラになりかねない。気持ち悪がられるのがオチだ。

 

「わかった。じゃあ、寛木君にはまだ店に出してないブレンドを淹れてあげるよ。新作だから、感想聞かせて」

「ソレ、どんな豆なの」

「あ、えっと。まぁ、いつものブレンドにちょっと別の豆を足して……」

「なんで、俺にはそんな曖昧な説明なんだよ」

「でも……寛木君、紅茶派だし」

「いや、そんなん関係ねぇだろ!」

 

 どんどん不機嫌さを増していく寛木君に、俺はどうしたモノかと慌てた。どうしよう。また何か彼の気に障る事を言ってしまったらしい。

 

「っだ、だいたい。コーヒーの話なら……まずは俺にすべきだろうが!」

「えっ、なんで?」

「普通、従業員教育もマスターの仕事なんだよ!だから、客にうんちく垂れてないで、俺に話せって言ってんの!」

「いや、でも。バイトの寛木君にそこまでしてもらうのは……」

「客に聞かれたら、毎度アンタを呼ぶのが面倒なんだよ!いいから、四の五の言わずに俺にも説明しろよ」

 

 寛木君からの提案に、俺は先ほどまで肩に感じてたジワリとした疲労感が一気に無くなった気がした。寛木君がコーヒーの事を知ろうとしてくれているのが嬉しかった。たとえ、それが彼の責任感から来るモノだとしても、関係ない。

 

「ほ、本当にいいの?」

「いいって言ってんだろ。……時間とって、ちゃんと丁寧に説明しろよ」

「じゃ、じゃあ。あの、明日とか。お店が開く時間とかに……」

「今日、店が終わってからでいいだろ」

 

 寛木君の言葉に、俺はヒクと喉を鳴らした。

 店が終わってからは、ダメだ。絶対にダメ。

 

「それはちょっと」

「なんでだよ。別にそんなに時間は取らせないし。いつもやってたじゃん」

「ううん。朝にしよ。夜はちゃんと帰ってしっかり休まないと」

「……なに、なんか予定でもあんのかよ」

 

 俺からの提案に、まだ何か言いたげな寛木君だったが、この議論はすぐに幕を閉じた。

 

「あの、俺のコーヒーはまだ?」

「っぁ、橘さん!」

 

 苦笑気味に話しかけてきた橘さんの言葉に、ハッとした。そうだった、ブレンドを用意しなきゃだった!

 

「すみません、今用意します!あ、寛木君はエッグタルトを準備して!」

「……はい」

「いや、忘れられてないかなーと思って言いに来ただけだから。別に急がなくていいよ」

「いや、すぐにお持ちします!」

 

 俺はすぐに店の奥に飛んで戻ると、コーヒーの準備に取り掛かった。まったく、俺ときたら一体何をしているのだろう。サービス業なのに、当のお客さんをほっぽり出して寛木君との会話に夢中になってしまうなんて。

 

「……なにやってんだよ、俺」

 

 ジワリと背中に刺すような視線を送ってくる寛木君に気付かないフリをしながら、俺は豆をミルにかける。

 

「俺も、寛木君としゃべりたい」

 

 夏が明けてから、寛木君は店が終わった後も、いつも俺と店の話し合いをしてくれていた。帰ったあとも、毎日連絡をくれたりして。

 

——–マスター、ちょっといい?

 

 そう言って一緒に残る時間がどれだけ楽しかったか。あれは、まさしく俺にとっての「大人の放課後」ってヤツだった。あの時間は、ミハルちゃんも居ない。寛木君と二人きりで、夜遅くなる時はカフェインレスのコーヒーなんかを飲みながら。

 

 でも、最近は全くそういう時間を殆ど持てていない。

 

「……もう、十二月か」

 

 寛木君やミハルちゃんは三月で居なくなる。だから、出来るだけ一緒に居たかったけど、最近ではそれも難しくなってきた。

 順調に常連客が増えてはいたものの、でも、俺はやっぱりすべてが遅かった。

 

「……バイト、間に合うといいけど」

 

 金平亭の赤字は、今や店の売上だけではどうにもならない程に膨れ上がっていた。

 

 喫茶 金平亭は今日も無事に店を開ける事が出来た。

 でも、明日もそうである保証はどこにもない。