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「っはぁ、つかれた」
俺は白み始めた明け方の空の下をぼんやりと歩いていた。冷たい風が疲れた体を通り過ぎ、白み始めた空は淡く星を照らした。
十一月の終わり頃から始めたコンビニの深夜バイトも、少しずつ慣れてきた。
「今、五時か。ちょっとは、寝れるかぁ」
ただ慣れたといっても、仕事に慣れてきただけで、決して体力的に慣れてきたワケではない。出来るだけ急いで帰りたいのに、意思に反して歩幅は緩やかで、まるで季節の疲れを重ねるごとに重くなるようだった。
——–なに、なんか予定でもあんのかよ
「……寛木君に、バレないようにしないと」
店の為にバイトをしてるのがバレたら、きっと彼は怒る。怒って、そして自分の事を責めるだろう。自分のやってきた事が間違っていた、と。まだまだやりようがあったのに、考えが足りなかったのだ、と。
「寛木君のせいじゃないよ。全部、俺のせい」
でも、彼はそういう子だ。責任感の強い、ウソの吐けない、不器用な子で……とても良い子だ。
寛木君は、俺の「金平亭はまだ間に合うか」という問いに対してこういった。
——–爺ちゃんに感謝しなよ。土地と店を受け継げてなかったら、多分無理だったろうから。
「……凄いなぁ。寛木君は。店の収支なんて一回も見せた事ないのに、なんでそんな事が分かるんだろ」
そう、あの店。喫茶金平亭が、俺が爺ちゃんから受け継いで得た店なら、今頃はこんなバイトなどせずに済んだだろう。きっと、赤字も少しずつ減っていったに違いない。しかし、現に、今の金平亭はそうはなっていない。
「爺ちゃん、なんで売っちゃったんだよ。金平亭」
金平亭の前で、俺はボソリと呟いた。
もう自分のアパートに帰る程の時間は残っていない。最近はもうずっと店で寝泊まりを繰り返している。
「……なんで」
俺はあの頃となんら変わらない店の外観を見つめながらボソリと呟く。
鍵穴に鍵を通し、扉を開ける。その瞬間、フワリと香ってきたコーヒー豆の匂いに、俺は静かに目を閉じた。
「良い匂いだなぁ」
このコーヒーの香りで満たされた店内も、あの頃のままだ。でも、この店に爺ちゃんは居ない。店の中も、あの頃とは全然違う。
——–いいか、キリ。お前は店を継ごうなんて思うなよ。この店はもう終わりだ。
店の中に一歩足を踏み入れた瞬間、爺ちゃんの声が遠くに聞こえた気がした。
そう、この店は爺ちゃんから引き継いだ店なんかじゃない。爺ちゃんは自分に病気が見つかった時、すぐに店を引き払う準備を始めた。
俺が、大学四年の頃の話だ。
コツコツと、店の中を歩く。見れば見るほど、あの頃とは何もかもが異なる店内。寛木君と俺で、大きく変わった。
「ほんとは、ここも、あそこも……本棚があったのに。俺、全部好きだったのになぁ」
それなのに、爺ちゃんは一冊残らず処分した。図書館になんて置いてなさそうな古い本があるかと思いきや、その隣には新しい雑誌が並んでいるような、そんな、まとまりのない本棚だった。でも、それが爺ちゃんらしくて、俺は学校をサボってはここで本を読むのが大好きだった。
でも、その全てを、爺ちゃんはアッサリと廃棄した。
「橘さんも、最初来た時ガッカリしてたよ。昔とは変わちゃったなぁって」
俺よりも十歳以上年上の彼もまた、学生時代に金平亭で過ごした日々を懐かしそうに語っていた。時代も記憶も別のモノなのに、場所が同じというだけで懐かしさを共有できたあの瞬間は、とても嬉しかった。
「でも、今の俺の店もいいじゃんって褒めてくれたよ」
リップサービスなのは丸分かりだったけど。だって、記憶にある金平亭に勝てるワケがない。俺だってそうだ。
「爺ちゃん……店をやるって大変だね」
今なら分かる。爺ちゃんが俺に店なんか持つなと言った意味が。俺なんかには到底無理だと爺ちゃんは分かっていたのだ。
でも、あの時の俺は爺ちゃんの言葉の意味なんてまるで分かってなくて。だから、コージーと大人になって再会したとき、これはチャンスだって思った。
——–なぁ、コージー。一緒に金平亭、作ってみないか?
コージーは高校時代、金平亭で知り合った友達だ。お互い、学校に居場所が無くて、気付けば毎日店で会うようになっていた。話も合って、ともかく一緒に居るのが楽で。コージーとは一生付き合える友達だと、俺は思っていたのに。
「……失敗した」
——–おい、霧!別にこだわるなって言ってるんじゃない!こだわりは売上を上げてからだって言ってるんだ!このままじゃ、金平亭はダメになるぞ!
コージーはいつも数字を見ていた。でも、数字の事しか言わないコージーに、俺は正直ガッカリだった。コージーの言う、なんだか小手先の営業方法や宣伝みたいなのが、凄くダサく見えて。そういうの、爺ちゃんの店っぽくないって思って。
俺は爺ちゃんみたいに美味しいコーヒーと金平亭さえあれば、客は来てくれるって思っていたのだ。
「ごめん、コージー」
コージーは間違ってなかった。むしろ、俺が無視して目を背けていたところを、コージーがいつも代わりに見てくれていたのに。
爺ちゃんみたいに、自分の店を持つのが夢だった。自分が自由でいられる場所が欲しかった。