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「でも、お金がないと……夢は続けられない」

 

 当たり前の事だったのに。

 毎月膨れ上がる赤字の収支は、どう考えても売り上げに対する家賃割合の多さからきていた。寛木君が言っていた。飲食店が潰れる一番の原因は「固定費」が支払えなくなる事だって。例に漏れず、金平亭もその状況だ。

 

「爺ちゃん。俺、店終わらせたくないよ」

 

 一人の店で、頭もボウッとする中で吐き出した言葉は、どうしようもないほど空虚だった。俺が最初からコージーの言う事を聞いて、格好なんかつけなかったらここまで酷くならなかっただろうに。でも、何度後悔してももう遅い。

 

——–もう、ここはあの頃の金平亭じゃねぇよ。俺は、もう抜ける。

 

 そう言って背を向けるコージーに、俺は何も言えなかった。でも、一番ショックだったのは、コージーが出ていった事より「あの頃の金平亭じゃない」と真正面から言われた事だった。言い返してやりたかったけど、でも、それは無理だった。だって、俺もそう思っていたから。

 

「……でもさ、爺ちゃん。俺にもちゃんとお客さんが付いたんだ」

 

 ハーッと息を吐くと、暖房も何もついていないせいで室内にも関わらず白い息が空を舞う。

 

「田尻さんも寛木君も、卒業した後も店に来たいって。寛木君なんか、最近全然帰ろうとしないんだよ」

 

 まぁ、従業員を〝客〟に換算するのはどうかと思うけれど。

 でも、いいじゃないか。職場なんて、本当なら時間がきたら「お疲れ様でした」って言って背中を向ける場所だろうに。そうしないって事は、あの店は彼らにとって居心地の良い空間になれているという事だ。

 

「寛木君も、俺のコーヒー好きって言ってくれるようになったし」

 

 特に、ここ数カ月で寛木君と凄く仲良くなれた気がする。最初は「紅茶派」なんて言ってたくせに、今では何かにつけて「コーヒー淹れてよ」って言ってくるほどだ。

 

「好きってさ、もちろんコーヒーの事だって分かってるけど、いちいちドキドキするんだよなぁ」

 

 そう、俺はバカだから勘違いしそうになる。最近は、寛木君が俺の事を好きなんじゃないかって。出会った頃みたいな勘違いをして、ふとした拍子に浮かれてしまっている。

 

——–好きだよ。

 

 冷え切った店内の中で、ジワリと頬が熱くなるのを感じた。

 

「まさか、男の子を好きになるなんて。しかも、アルバイトの大学生をだよ。なんかもう、自分がイヤになるよ」

 

 来年の三月には、寛木君も社会人だ。店に来たいって言ってくれているけど、きっとすぐにそんな暇は無くなるのだろう。

「いつでもおいで」と、俺は言った。でも、本当はそうじゃない。

 

「いつも居て欲しいよ」

 

 まったく、何をバカな事を言っているんだろう。

 眠気と疲労で瞼が重くなってきた。そろそろ、休憩室で仮眠を取らなければ。今眠れば、きっと三時間くらいは眠れるはずだ。寛木君が来る前には、店の準備を済ませておきたい。

 

——–いいか、キリ。

 

 ぼんやりする視界の端に、爺ちゃんの姿が見えた気がした。いよいよ、疲れて頭がおかしくなったらしい。

 カウンターの一番左端。いつも爺ちゃんはあそこで、本を読んでいた。お客さんが来ても何も言わず。視線だけで出迎える。

 

——–商いを始めた以上、商いを終わらせるのも店主の勤めだ。だから、これは爺ちゃんの仕事だ。他のヤツには任せられん。もちろん、お前にさせるわけにはいかん。

 

 そう言って、何十年もかけて集めてきた本や食器を処分していく爺ちゃんの横顔は、いつも以上に無表情だった。俺がいくら泣いて止めても、爺ちゃんの手は止まらなかった。

 

「商いを終わらせるのも、店主の勤め、か」

 

 始めるよりも、終わらせる事の方が何倍も難しい事を、爺ちゃんは分かっていた。だから、俺に「店なんか持つな」と言ったのだ。

 

「……大丈夫、出来るよ。俺」

 

 俺は爺ちゃんのいつも座っていた席にソロリと腰かけると、そのまま静かに目を閉じた。

 

 

◇◆◇

 

 

 その日、俺は夢を見た。

 久しぶりに爺ちゃんの夢。よく分からないけど、俺は爺ちゃんの前で大泣きしていた。爺ちゃんが懐かしかったのか、それとも金平亭を続けられない事が辛いのか。夢だから、よく分からない。

 

 そんな俺に、爺ちゃんはいつもみたいに言った。

 

『キリ、お前はまた泣いとるのか。この泣き黒子が泣き虫を連れてくるのか?』

 

 爺ちゃん、俺。大人になってもまだ泣き黒子、取れてないや。