(7)

 

 

「フル、スタ?」

「兄さんっ!」

 

 そこには、一人だけ従者を連れたフルスタ様が、ラティに向かって嬉しそうな表情で駆け寄ってくる姿があった。

 柔らかな赤髪は陽光を受けて煌めき、澄んだ赤い瞳には芯のある聡明さが宿る。十七歳の若さに似合わぬ落ち着いた物腰が、彼が王足る存在であることを静かに物語っていた。

 

「ど、どうしたの?フルスタ、こんな所で」

「兄さんに会いに来たんだ!」

「僕に?」

 

 やっぱり、この方は明らかに前王の血を色濃く引いている。

 

「兄さんに、ショート……それに、ケイン様も。ちょうど良かった」

「……フルスタ様」

 

 フルスタ様はザッとラティとショートを見渡した後、少し間をおいて、冷静な表情で俺を見据えた。

 

「あの事を、兄に話をさせて頂きます。これは……あなたの為でもあるのですから」

 

 俺にだけ敬称を用いるフルスタに、ラティはどう思うのだろうか。

 怖くてラティの顔が見れない。俺は、ラティにバーグの事も、その後の国の事も、何も知らせてはいないのだ。

 

「ケイン様。もう、貴方一人で国政を担うのは限界です。だから政の手綱を私に……いや、私達兄弟にお返しください」

「……フルスタ?一体何の話をしているの?」

 

 ラティの戸惑った声に、フルスタ様の視線がスルリと俺から離れていく。

 あぁ、いつか、こんな日が来るとは思っていた。

 

「ねぇ、兄さん。私と一緒に、政に加わって欲しいんだ」

「っへ?」

 

 突然、話を振られたラティが間抜けな声を上げる。昔から変わらないその安穏とした姿が、俺にとっては唯一の安らぎだった。ラティの揺らいだ瞳が、チラと俺の方へと向けられる。

 

「け、ケイン?あの、これは一体」

「……」

「兄さん。今はケイン様ではなく、私と話してよ。こっちを見て」

「あ、えっと」

 

 俺の手綱は、いつだってラティが握っていた。

 そして、これからもそれは変らない。俺は、ラティの世界を「ケイン」という人間だけで満たしたかった。俺以外、見て欲しくなかった。

 

 だって、最初から最後まで俺を「ケイン」という個人として見てくれたのは、ラティだけだったから。

 

「兄さん。今、この国は大きな転換期にきている。色々と分からない事も多いと思います。でも、まずはコレだけは知っていて欲しいんです。これからの世を作るのに……もう戦争は必要ない。新しい時代が目の前に迫っている」

「……う、うん」

「今こそスピルの民は……兄さんのような人を求めているんです!」

「っ!」

 

 フルスタ様の言葉に、嘘も偽りもなかった。

 ラティは聡い。相手の本心を、いともたやすく見抜く。戦時下の政の下では、生かせなかった優しい心根と、それでいて冷酷なまでに状況を見極める心眼は、きっとこれからの国政に必要だろう。

 

 ラティに心にずっと一番必要だったモノ。それは、鞭でも、友達でもない。

 

 貴方にしか果たせないという「使命」だ。それを、ずっと分かっていながら、ラティを手放したく無くて「無能の王太子」の箱に閉じ込め続けた。

 

「兄さん、僕を一人にしないで。一緒にこの国を未来の泰平へと導いていってくれませんか」

「僕が、フルスタと一緒に……この国を?」

「ええ、そうです」

 

 突然現れ、勝手な事を言うフルスタ様に「おい、止めろ。それ以上言うな」と喉まで出かかった言葉を、グッと飲み込んだ。

 あぁ、言えるかよ。そんな事を、俺が言えるワケがない。

 

「スピルの民が、僕を必要としている……?本当に、そんな」

 

 他でもないラティが、こんなに嬉しそうな顔をしているのだから。

 

「兄さん、昔みたいに。また、色々と教えて……お話をしましょう」

「……フルスタ、あの。えっと。あのね、よく分からないんだけど」

 

 あぁ、きっとラティは、フルスタ様の言葉を欠片も理解していないだろう。しかし、戸惑いの中で初めて他者から「求められている」ことに気づき、その顔は喜びに頬を染めていた。

 

「うん、大丈夫。それは少しずつ理解していけばいいから」

「少しずつ……?」

「うん、もう兄さん一人に背負わせたりしないから。私が一緒に居るから」

 

 いやだ、このままでは、またラティが奪われる。ショートに?フルスタ様に?いや、そうじゃない。

 

「一緒に、スピルの為に頑張ろう?」

 

 今度は、スピルという「国家」に、永久に奪われてしまう。兵士も王も、全ては「国家」の為にあるのだから。

 胸の奥に鉛を流し込まれるような感覚が広がり、足元から力が抜けていく。

 

—–ウィップ、今までありがとう。僕の大切な友達。じゃあね。

 

 ラティは、日記を捨てた。もう二度と書かないと言った。

 

「……あぁ、俺も置いて行かれるのか」

 

 そう、腹の底から湧き上がる絶望に飲み込まれたまま、俺は呟いた——

 

「ダメだよ、フルスタ」

 

 その時だった。

 

「違うんだ、フルスタ。そうじゃない」

「え?」

「僕は、愚かな王族だからスピルの民の為には頑張れないんだよ。そして、もっと、もっと……ごめんね。フルスタ?」

 

 ラティの安穏とした、けれどそれでいて一歩も引かない頑固な声が、周囲の空気を完全に制した。

 

「僕はキミの為にも頑張る事は出来ない」

 

 ラティのやけにハッキリとした言葉が、風に揺れる木々の音に乗って、俺の鼓膜をかすかに揺らす。そして、その優しげな視線はこれまで通り、当たり前のような流れで俺へと向けられた。

 

「僕は、ケインの為にしか頑張れないんだ」

「っ!」

「最低な兄で、ごめんね」

 

 困ったように笑うラティの質素な衣服の首元から、敵国バーグで付けられた鞭の痕がかすかに覗いていた。その痕は、彼が耐えてきた苦難の一端を静かに物語っているかのようだった。

 

「ねぇ、ケイン?」

「……ラティ」

 

 声が、震える。

 つい先ほどまで様々な感情で渦巻き、荒れ狂っていた思考がラティの姿を前に、一気に凪いだ。

 

「僕には色々と足りないモノなかりなんだけれどね、ケイン。もし、フルスタのお願いの中に、少しでもケインが望むナニかがあれば言って」

 

 しかし、首元から見える傷なんてほんの一部だ。

 ラティの体には、もう傷の無い場所などどこにもない。弱い、弱い王太子は、他でもない俺の為に、敵国で二年間も鞭の痛みに耐え続けた。

 

「僕は、いつでもこの身を差し出す覚悟が出来ているからね」

「ラティ、なんで。お前は……そんなに」

「なんでって、ケインはこの世界でたった一人の僕の友達だから」

 

—–ぼぐ、げいんじか、い゛ないの。

「キミより大切なモノなんて、この世にないよ!」

 

 遠くで、俺を求めて泣くラティの声が聞こえた気がした。

 そうだ。俺の手綱はラティが握っている。そして、その逆も然りだ。

 

「……ラティ。二人きりに、なりたい」

「うん」

 

 俺はジッとこちらを見上げてくるラティに、ただ、それだけを口にするので精一杯だった。