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俺とラティは、そのまま庭園の中を歩いていた。
「このバラは本当にキレイだね」
「……」
「でも、綺麗なのは見た目だけじゃないね。匂いもとっても素敵。派手だけど、どこか落ち着いたアンバーみたいな……優しい香りだ」
「……」
何も言わない俺に、ラティはただバラの感想を言う。金色のバラの中に佇むラティは、なんだかいつも以上に楽しそうに見えた。
「ケイン、僕が昔、本でこのバラのことを話していたのを覚えていてくれたんだね。それでここに用意してくれたんでしょう?」
「……」
「きっと大変だったよね。本当に、ありがとう」
ラティは微笑みなが嬉しそうにバラと俺を交互に見つめる。
きっと、フルスタ様の言っていた事で、気になる事がいくつもあるだろう。この国がどうなっているのか、俺が、何をどうしたのか。
でも、ラティは何も言わない。俺が聞いてほしくないと思っている事を察して。ただ、俺の望む「ラティ」で居てくれている。
「……ラティ」
「ん?」
俺は、自分よりずっと小柄なラティの前に立ち、風で揺れる前髪をそっと指先で払いのけた。
「ショートとは何を話していたんだ?」
「えっと、何だったかな……大した話はしてないと思うけど」
「そんなこと言って、随分と楽しそうだったじゃないか」
「……楽しそう?」
ここにきてなお、そんな事しか言えない。俺はどこまで弱くなってしまったのだろう。
「えっと、ショートってね、ケインにそっくりじゃない?」
「らしいな」
正直言って、全く嬉しくない。
しかし、俺もショートも父親似なせいか、成長して背格好が似てくると、間違って声をかけられる事が増えた。特に、宮中の文官は未だに俺とショートを呼び間違える奴が多くて困る。
アイツは俺と違って知り合いが多いから。
「だから、久々にお昼間にケインと話してるみたいなで凄く嬉しかったんだよ」
「……」
「それに、ショートはケインとは違った笑い方をするからご機嫌なケインと喋ってるみたいで新鮮で……って、怒った?」
「……いいや」
顔が熱い。どうやら、俺の怒りは本当にお門違いだったらしい。
自分でも呆れるほど狭い心で嫉妬していた俺の向こうで、ラティはいつだってこうやって、俺の中に潜む狼をそっと撫でるように落ち着かせてくれる。
本人はきっと無自覚なのだろう。それが余計に悔しくて、でも同時にたまらなく愛おしい。
「ケイン?」
「なぁ、ラティ」
おかげで、随分と落ち着いてきた。言うなら、今しかない。
「さっきのフルスタ様の言っていた……事なんだが」
俺がしてきた事、俺の身勝手の末にこの国が今どんな状況にあるのか。そして、その中で、ラティがどう生きていく選択肢を選ぶのか。
「ラティ。俺は、この国を……」
「ねぇ、ケイン?」
いつの間にか、握り締めていた拳をラティのほっそりした掌が包み込んでいた。
「僕は、自分に何か特別な才があるとは思っていない。だから、それを周囲に期待されるのは酷く荷が重くて……そう。とっても、面倒な事なんだよ」
「……面倒?」
「うん、とっても面倒……ううん、鬱陶しい!国家の泰平なんて、正直言って生まれた頃からどうでもいい」
ラティは軽く言ってのけると、普段はあまり見せない冷たい微笑を浮かべた。それは感情を断ち切り、誰も寄せ付けないように磨き上げられた刃物のようで、その鋭さに俺は言葉を失った。
「生まれた時から、僕の血と体は国家と民のモノなんて言われてさ。ほんと、イヤになっちゃう。だから、僕が僕の事で唯一自分のモノに出来たのは……日記だけだった」
ラティはふっと目を伏せた。一瞬泣いているのかと思ったが、ラティの口元は微かに笑みが浮かんでいる。その上、俺の手を握るラティの手はどこまでも優しい。
言葉と表情の乖離に、胸の奥がざわつく。
「だから、わざとこんな格好をして責任から逃れようと必死になっていたんだ。ね、ズルい王族でしょう?」
ラティの言葉を通して、目の前のラティの薄汚れた格好を見る。どうやら、この格好はラティの静かな反抗意識の現れだったらしい。
「だから、安心して欲しい。僕は、君が思っている以上にズルくてどうしようもない人間だから、あの……」
ラティが何か必死に俺に伝えようとしてくれている。
他人の前ではあまり動かない小さな口が、俺の前だけでは無邪気に、まるで日記に文章を綴るように語り掛けてくれる様が、俺は昔から好きだった。
「だから、ケイン。キミは僕に対して何も気負う必要はないんだよ」
「……ラティ」
「ねぇ、何でも話してよ。僕が知りたいのは、この国のこれまで……なんて話じゃない。ケインの今の気持ちが知りたいんだ」
ラティがそっと拳を解き、そこにスルリと自分の手を滑り込ませてくる。その小さく頼りない手を感じた瞬間、俺は思わず縋るように指を絡めた。不思議と胸の奥に張り詰めていたものが、ふっと外れるような感覚がした。
「ラティ、俺は……凄く、どうしようもないヤツなんだ」
「そうなの?」
「そうだ、酷い事を平気でやってのける。人だってたくさん殺した。俺にとっては、国家も民もどうでもいい。全部、どうなろうと構わない。でも……ラティ、お前だけは……っ」
「うん。ケインは僕に、一体どうして欲しい?」
ラティのどこまでも真っすぐな問いかけに、俺はゴクリと唾液を飲み下すと、そのまま腹の底に滞留した重い感情を吐き出すように言った。
「……俺のことを、見捨てないで、くれ」
ずっと、それだけが怖かった。だから、それだけを伝えたかった。俺にとって、この世で最も恐ろしいのは「己の死」ではない。
ラティに「お前なんか、もういらない」と捨てられる事だった。
「ラティ……頼む」
絞り出すように放たれた情けない声に、ラティが俺の手をギュッと握り返した。
「っう、ぁ」
その瞬間、ラティは迷うことなく俺を引き寄せ、力強く抱き締めてきた。温かな腕が俺を包み込む感覚に、思わず身体が震える。
「うん、わかったぁ。見捨てない」
幼い頃と変わらない。安穏とした、でも心底嬉しそうな返事になんだか一気に肩の力が抜けた気がした。驚くほど軽い返事だ。
「……はは、なんだこれ」
別にこれまでと何か変わったワケではない。こんなの、ただの子供同士の口約束と同じようなモノなのに。未来なんて結局どうなるかも分からないのに。
なのに、どうしてだろう。
「そうか、見捨てないで……いてくれるか」
「うん」
ずっと重かった心が、一気に解放された気がした。
「ふふ、ケインが何を言うのかと思えば。国家も民もどうでも良いのは僕だって同じじゃない。それに、ケインに人を殺すように命じてるのは、僕達王族なのだから。ケインより、僕の方がもっとどうしようもないヤツだね」
「……」
「ケイン、最近忙しそうだね。ずっと眠れていないね」
ラティの細い腕が、俺の背中を撫でる。俺は、ラティの頼りない肩に顔を埋めながら、静かにラティの声を聴いた。
「四年前から、ずっと一人で戦わせてごめんね。怖かったでしょう。痛かったでしょう」
「……っ」
怖かったでしょう、痛かったでしょう、なんて。
どんな傷を負おうと、母親にも言われた事が無かったのに。それが、俺達の「当たり前」だと言われて生きてきたはずだったのに。
「いや、違うね。四年前なんかじゃない。子供の頃から、ずっとごめん。痛いのも苦しいのも、僕がケインに当たり前にさせちゃったね」
「……っぅ、っ」
視界が歪む。
違う、そうじゃないと返事がしたいのに、声すらまともに上げなられない。
「ケイン、何度も言うよ。僕はどうしようもない人間だけど」
ラティはその瞬間、抱き締めていた俺の体を解放すると、優しく両手で俺の頬を包み込んだ。きっと、今、ラティの頑固で強い意志を持った瞳が、俺を真っ直ぐに見つめているのだろう。
でも、もうそれすら見えない。
「キミの為だったら、どんな事だって頑張れるよ」
「……っぅ、ぅ」
「ケイン、どうか僕を頼ってくれないかな?」
いつになくラティのハッキリとした物言いに、俺はといえば、もう情けない事に——
「……う゛んっ」
ただただ、子供のようにボロボロと涙を流して、頷く事しか出来なかった。そんな俺に、ラティはいつかどこかで聞いたような言葉を、嬉しそうに言ってのけた。
「ふふ。ケイン、僕の前でだったら泣いてもいいからね。どんなケインでも、僕は慣れてるから」
—–オレの前でだったら泣いてもいいぜ。変なラティも、もう慣れたからな。
どうやら、ラティがこの世で最も必要としているのは、他でもない。
「俺の弱さ」だったらしい。