(9)

 

◇◆◇

 

 その後、ラティを取り巻く環境は、少しずつ変化していった。

 

「ケイン、来てくれてありがとう。今日もどうぞよろしくお願いします」

「はいはい。で、地図は?」

「こっ、こっちに広げてあるよ!」

 

 公には姿を現さないものの、スピルの王族の一人として政に従事する準備を始めたのだ。役割を与えられるだけで人はここまで変わるものかと思うほど、ラティの表情は日を追うごとに豊かに、そして明るくなっていった。

 

 それ自体は良いことだ。大変喜ばしい事だし、俺が望んでいた事でもある。

 しかし——。

 

「で、復習はしたのか?」

「……」

「おい」

「少しだけ、しました」

「……へぇ」

 

 目を逸らすラティの姿に、過去パイチェ先生にから逃げるように視線を泳がせていたら子供の頃のラティを思い出した。

 まさか、俺が先生の立場になる日がこようとは。

 

「したよ、少し!」

「はいはい。少しな」

 

 役割を与えられて明るくなったとは言え、俺の前に居るのは〝あの〟ラティだ。何が急に変わるワケでもない。

 俺はスピル周辺の地図を囲み、ラティに講義を始めた。

 

 ラティが最も苦手とする「地政学」の講義を。

 

「ちょっ、ちょっと待って!ケイン、ごめんね。ちょっと、もう一回ゆっくり説明してくれる?」

「だから、旧バーグとの国境線上に駐留させている兵の数が……」

「あの、国境線上ってここだっけ?」

「違う、こっちだ!昨日も教えただろうが!」

「っごめん!」

 

 ラティは地図を苦々しい表情で見つめ、手元の資料と地図をせわしなく行き来させていた。

 

「あぁ、ここか。えっとここに兵が置かれて、それにかかる国費が……」

 

 分かっていた事だが、ラティを政に復帰させようとしたところで、何かが急に好転したりしない。いくらラティが本質的に物事を理解する能力に長けていたとしても、国政とは、そんなに簡単なモノではないのだから。

 

 まぁ、こればっかりは少しずつやっていくしかないだろう。

 

「おい、復習してないだろ?」

「ご、ごめん」

「ったく、自分からやるって言ったんだから、もう少し身を入れてやれよ。昼間は何やってたんだ。どうせ、ボケッと雲でも眺めてたんだろ」

「うっ」

 

 「ごめん」と三度目の謝罪を口にし、つむじが見えるほど深く俯くラティの姿に、俺はギクリとした。完全に言い過ぎてしまった。

 ラティの物覚えが悪いのなんて、今更な事なのに。

 

「……あの、ケインも昼間は忙しくて疲れてるよね。今日は、その……これくらいで大丈夫だから。部屋で先に休んでいて」

 

 声に滲む自責と、泣きそうに歪むラティの表情に目を奪われる。

 同時に、そんな彼を見て心が妙に満たされる自分に気づき、胸の奥からどうしようもない感情が湧き上がってきた。

 

「そうやって、俺の為みたいな事言ってサボろうとすんなよ」

「っぁ、う」

 

 あぁ、俺は本当にどうしようもないヤツだ。

 未だにラティの泣き顔に興奮してしまうなんて。

 

「ほら、続きやるぞ」

「っう、うん」

「もう一回説明するから、よく聞けよ」

 

 自身の後ろめたさを誤魔化すように、地図に向かって指をさした――その時だった。

 

「兄さん」

「っ!」

 

 ノックと共に、部屋の向こうからフルスタ様の声が聞こえた。こんな遅い時間に、珍しい。

 

「あ、フルスタ。こんばんは」

「こんばんは、兄さん。……ケインも、夜遅くまでご苦労様です」

 

 チラリとこちらに気づいて微笑むフルスタ様。その口から、ある時を境に俺への呼称に敬称が消えていた。

 

 ラティが国政に復帰する決意をしたと同時に、俺は金軍の一将軍としての地位に戻った。もともと王族を排斥していたわけではないから、外向きに大きな変化があったわけではない。

 だが、俺という独裁者が姿を消したことで、内省は静かに、そして確実に変わり始めていた。

 

「いいえ、フルスタ様も今日はどうしてこんな時間に?」

「貴方と同じです。私も兄さんに呼ばれてて」

「ラティに?」

「ええ、それに呼ばれているの私だけじゃないですよ」

 

 そう言ってチラと扉の後ろを見たフルスタ様に合わせて視線を向けると、そこには腹が立つほど見慣れた姿がった。

 

「よっ、兄貴。お疲れ」

「……ショート」

 

 そこには、王族の前でも変わらず乱れた襟元を直そうともしないショートがいた。片手をポケットに突っ込み、口元には、悪びれた様子もなく、いつもの軽薄そうな笑みを浮かべている。

 

 あぁ、そうだ。この顔に昔から何度ムカついてきた事か。

 

「……お前の顔を見るまでは疲れてなかったんだがな。たった今、疲労困憊になった」

「そりゃお互い様だ。俺も兄貴の顔を見て、今朝、火杯で殴られた傷が疼き始めた」

 

 そう言って、わざと髪をかき上げ青痣と火傷の痕の残る額を見せつけてくるショートに奥歯を噛んだ。コイツがわざわざ〝俺〟に、俺の付けた傷を見せつけてくるワケがない。

 

 ショートが自分の傷を見せつけたい相手は、それは——。

 

「ひ、火杯で、頭を……?」

「っぐ」

 

 ラティだ。

 隣から、信じられないとばかりに目を剥いてこちらを見て来るラティからの視線に、俺は思わず目を逸らす。すると、視線の先に、苦笑するフルスタ様と「ざまぁ」とばかりに笑いをかみ殺すショートが目に入った。

 

「……クソが」

 

 決めた。明日は、朝から灰炉に頭からぶち込んでやろう。それなら傷も残らないだろうし、どんなに泣き喚こうが日が暮れるまでは出さん。

 

「兄さん、何か用があって私達を呼んだんじゃなかった?」

「あ、あぁ……フルスタにショートも、どうぞどう。わざわざ来てくれてありがとうね。ちょっと二人に内緒の話があって」

 

 内緒の話?

 しかも、フルスタ様にだけじゃなくショートにもなんて。腹の中で微かにモヤつく感情を肥大化させそうになる俺を他所に、ラティは「おいでおいで」と子供を呼ぶような動作で二人を部屋の中に招き入れ、二人をソファに座らせた。

 

「内緒の話って?」

「ああ、気構えなくていいからね。ゆっくりして」

 

 見た目は童顔でまるきり成人過ぎた男には見えないくせに、ソファを撫でるその仕草は妙に老成して見えた。

 

「昨日、国庫の財務で少し気になる動きがあるって言ってたよね。昼間にちょっと調べてみたら、分かったことがあったんだ。だから、フルスタにも伝えておこうと思って」

「え、もう?」

 

 戸惑うフルスタ様に、ラティはソファの前に膝をつく。